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肩を叩かれて目を覚ました。地面に座っていたようで尻が冷たい。灰色っぽいスーツを着た男がわたしを見下ろして何か言ったが頭がぼんやりして聞き取れない。そのまま十秒、もしくはそれより長い時間見つめ合っていたが、男はわたしが何も反応を示さないので舌打ちをして去って行った。その後もしばらく顔を上げたままの体勢で地面に座っていた。ここはどこなのだろうと辺りを見回す。池袋駅の西口らしいことが分かる。こんな所で眠っているのは自分と浮浪者だけだった。俄かに財布の中身が気になって鞄から取り出すと、小銭しか入っていなかった。つまり、朝下ろしたはずの七万円がそっくり無くなっていたということだ。思い出したくない記憶が蘇る。つい先刻まで渋谷で酒を飲んでいた。終電はまだあったがひどく酔っており帰れそうになかったので、タクシーに乗った。タクシーの運転手はよく話す男だった。しかしわたしが一言も返事をしないでいるとバックミラー越しに一瞥をくれたのち黙った。いつの間にか寝ていて、運転手の「お客さん!」と呼ぶ声で起きた。まだ全身が酒臭く、何より眠かった。運賃を言われ、わたしは財布の中身を全て出し「これあげる」と言った。運転手は驚いた顔をして「いやいや困りますよ」と言ったがその口振りと表情は全く困っておらず、わたしの次の一言を待っているのは明らかだった。「いいから、あげるから」車の外に出る。そこからは何も覚えていない。少なくとも運転手が慌てて運転席を降り、わたしを追って金を返すようなことはしなかった。酒が抜け始める。頭が痛い。一刻も早くあの運転手を見つけ出して殺し、金を取り返そうと思った。領収書を探すが、清算を済ませず下車したのだからそんなものがあるはずは無かった。頭痛の疼きと共に殺意が肥大していく。すぐ隣でダンボールに埋もれて寝ている浮浪者に目を遣る。しかしこいつを殺したところで七万円は帰ってこない。あの運転手を殺すしか無い。だのに手掛かりは皆無で容貌もうろ覚えだ。行き場を失った殺意をうまくコントロール出来ずすぐに手を離してしまった。眠い、疲れた、何も考えたくない。今すぐ家で眠りたかったが、池袋から自宅までどう頑張って歩いても一時間は掛かる。何故自宅の最寄駅を指定しなかったのだろう。それともあの運転手がわざとここで降ろしたのだろうか。性根の腐った人間の考えることは想像する気にもならない。わたしはすべてが嫌になって目を閉じた。一切の決定を起きた後の自分に委ねることにした。

というのが丁度一ヶ月前の出来事である。起きた後の自分が下した決断は、「考えないようにする」という実に単純で哀れな物だった。わたしはそれを忠実に守り、考えないよう思い出さないように日々を過ごした。そして今日が来て、一時間ほど前、男の悲鳴というのか呻き声というのか、そんなものによって目を覚ました。目を覚ましたといっても眠りからでは無く、正気の状態から酩酊状態へと目覚めた。そこは扉が開いたままのトイレの個室だった。わたしは持ち手の青いハサミを持っていて、男は便座の蓋に覆い被さるようにして伏せていた。顔を両手で抑えており、目の辺りから血が流れていた。男は一ヶ月前にわたしの肩を叩いた男と同じ灰色っぽいスーツを着ていた。酒により冴えた頭で、彼は七万円を盗んだ件の運転手に相違無いと確信した。男は鞄の類を持っていなかったので、衣類のポケットを探ろうかと思ったが、呻き声があまりにうるさく嫌な気分になりやめた。どうせあっという間に使い切ったに違いない。そう考えるとまた少し腹が立ったので頭を思い切り三回右足で踏んだ。骨と肉が便器に打ち付けられる音がした。個室を出て汚れた手とハサミを洗うが血はなかなか落ちなかった。ハンカチで手を拭こうと鞄の中を探ると、内ポケットから二つに折られた白い封筒が出てきた。中には七万円と、タクシーの領収書が入っていた。男はまだ呻き続けている。濡れたままの手で中身を封筒に戻しながら、今夜はどこで酒を飲もうかと考え始める。