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小学生の頃、友達が居なかった。虐められていたわけでは無かったはずだが、休み時間はいつも一人で過ごしていた。今なら図書室で読書でもして時間を潰すんだろうが、当時は読書の習慣がほとんど無かったので、ひたすら黒板を綺麗に磨くか、体育館裏の桑や柘榴の実を食べるか、保健室で保健室登校のみっちゃんの描く絵を遠くから眺めるか、というのが主な過ごし方だった。みっちゃんは一度友達になりかけたが、両親が離婚して母方の実家がある青森県に引っ越してしまった。彼女には歳の離れた兄が居て、「攻殻機動隊」や「稲中卓球部」などをよく貸して貰った。わたしにも兄が居るが、三つしか違わないので青年漫画を読むのは新鮮だった。
理由も、いつの出来事だったのかも覚えていないが、一度だけクラスメートの家に遊びに行ったことがある。通っていた小学校は繁華街の中にあり、周りに民家がほとんど無かったため全学年一クラスのみで、さすがにいつも一人で居るわたしを憐れに思い誘ってくれたのかも知れない。Mという子の家で、Rも一緒だった。玄関で靴を脱ぎながら、他人の家は自分の家と全く違う匂いがするものだなと思った。Mは母親と二人暮らしで、母親は働きに出ていて居なかった。RがMに白い箱を渡した。手作りのブルーベリーパイだと言った。友達が居ないから、誰かの家を訪う際は手土産を持っていくという習慣があるのをわたしはその時知らなかった。Mの部屋に通され、飲み物を持ってくるから寛いでいてと言われた。Mはたまに話し掛けてくれるが、Rとはほとんど会話したことが無かった。幸い彼女はよく喋る子供だったため、適当なところで相槌を打っていれば良かった。しばらくすると盆に紅茶茶碗とブルーベリーパイを載せたMが戻って来た。折りたたみ式の小さな白い卓の上にそれらを置き、各々食べ始めた。「美味しい?」とRがすかさず訊いた。砂糖の味もブルーベリーの甘みも全くせず、べちゃべちゃしていてとても食べられたものでは無いな…と答えに窮していると、Mが「うん、美味しいよ」と言ったのでRは気を良くし微笑んだ。次いで二人はクラスの好きな男の子の話、嫌いな女の子の悪口、浜崎あゆみモーニング娘。、ジャニーズタレント、流行りの少女漫画、なんとか言うテレビ番組の話などをした。その間わたしは一言も発さず、べちゃべちゃのブルーベリーパイを食べ続けた。徐々に頭がぼんやりし出し、目の前の景色の遠近感が喪失していくのだけが分かった。わたしは立ち上がり、「ごめん、帰る」と言ってMの家から走って逃げた。
家の近くにあるT公園になんとなく向かった。転がっていた石で花びらや蟻を磨り潰して遊んでいたところ、クラスメートのWくんがわたしに気付き話しかけて来た。泥のついたサッカーのユニフォームを着ており、練習の帰りなのだなと思った。「面白いジジイが居るから来て」とWくんに言われついて行った。T公園は林のような一角があり、そこには何十人ものホームレスが生活をしていた。冬場に凍死体を見たことも何度かあった。Wくんが紹介してくれたジジイも勿論ホームレスだった。肌も服も黒ずんでいたがよく見るとそこまで年老いておらず、自分の父親とそう年齢が変わらないくらいに見えた。連れて来られるなり、「英語教えてやろうか?」と言われた。わたしが返事する前に、ジジイは腹に巻いていた新聞紙を掲げ「新聞紙はニュースペーパー」、カラスを指差し「カラスはクロウ」と言った。どうでもいいなと思ったが、Wくんは興味津々の様子だった。それが嬉しかったのか、彼は「良いもの見せてやるよ」と言い一度ブルーシートで出来たテントに引っ込み、中から十冊近い漫画本を抱えて出て来た。「欲しけりゃ一冊ずつやるよ」というジジイの言葉にWくんは「え、いいの?」と目を輝かせた。わたしはこんなの持ち帰ったら親に怒られるだろうし、何より汚いから触りたくないなと思い要らないと言った。するとWくんが「じゃあおまえの分もおれが貰う」と言うので、それはそれで口惜しい気持ちになり、とりあえず選んで読んで、どこかに棄てることにした。Wくんは散々悩んだ挙句一番性的な内容の漫画を選んだ。わたしはなるべく状態の良いものにしようとし、表紙に猫の絵が描いてある漫画を選んだ。かわい子ぶったのでは無く、他人が読んだ後の性的な漫画に触れる勇気はさすがに無かったのだった。ホームレスに礼を言って別れ、Wくんは自転車に乗って帰って行った。時計台の方を見ると、門限まではまだ少し時間があったので、ベンチに座り先程貰った漫画を読んだ。「ねこぢるうどん」の一巻だった。夢中で読んだが、わたしは今なお字を読むのが人並外れて遅く、半分も読み終わらないうちに文字が読みづらくなってきて、日が暮れ始めているのに気付いた。門限はとっくに過ぎていた。ただでさえ帰るのが遅くなっているのに、こんな漫画を持ち帰ったら輪をかけて面倒なことになるだろうと判断し、仕方無く公園のゴミ箱に棄てて家に帰った。普段帰宅時は開いているドアが閉まっていた。最悪の気分で何回かチャイムを鳴らすとようやく母が出、すぐに謝ったが不動明王の如き剣幕で怒られた。不貞腐れて居間に向かうと兄がファイナルファンタジーに打ち興じていた。この頃は父が居たが、まだ帰って来てなかった。ゲーム画面を眺めながら、どうせあんなに怒られるのなら漫画を持って帰って来れば良かった、と酷く後悔した。